証  2008年 9月21日

 私は、主人の転勤で、1996年から2005年までの9年間をサイパンで過ごしました。サイパンでは、現地の人達との関わりの中で、結婚式、お葬式、洗礼式、入学式や卒業式・・・等、折に触れ教会を訪れる機会がありました。サイパンの人達は、皆ごく当たり前のように毎週日曜日には、家族揃ってとても楽しそうに教会に出かけていく姿を少し羨ましく思いながら、自分とは縁のない所だと、ただ眺めていました。○○が現地の小学校に入学し、バイブルの授業や毎週末のテストに、聖書を見たことも無かった私は、その意味もわからずに、とにかく覚え込ませるだけでした。どうしたものか、と思っていたところ、サイパンにも日本人の牧師さんがいて、日本語の礼拝があることを知り、思い切ってその教会へ行ってみました。サイパン・ナオス・ジャパニーズ・チャーチという教会です。日本人の中には、まだ、クリスチャンが少ないと言われていますが、そこもまた、日本人は数えるほどで、韓国・中国・ネパール・フィリピン・アメリカ・現地の人と他の国の方が大多数を占めていました。言葉も文化も違うその群れの中で、共通しているのはただ一つ、神さまを信じているという事だけでした。初めは、なんだか不思議な場所だなあ、と思っていましたが、そこに集まっている時間が、私がサイパンで過ごした9年間の中で、一番楽しかった時間でもあり、たくさんの人達との出会いや貴重な経験をしたところでもありました。その中で、神さまの愛の大きさ、偉大な力を知り、日本に帰国する前にバプテスマを受けました。
 日本に帰ってきて、しばらくは教会から足が遠のいてしまっていました。その事を心配されたサイパンの牧師さんが近くにある教会をいくつか知らせてくださったのですが、それでも来週・・・また来週と延ばし延ばしにしてしまっていましたら、ある日、○○先生と○○先生が家を訪ねて来てくださいました。それで漠然と、日本ではこの教会に行っても良いということなのかな・・・と考えましたが、それでも一歩が踏み出せず、教会へ行くことをしませんでした。そのうちに、サイパンの牧師さんが熊本に訪ねてこられ、日曜日の礼拝に出席したいのだけれども・・・と言われ、私も一緒に初めてこの菊池シオンキリスト教会を訪れました。それからまた半年くらい来ていなかったと思いますが、何となくいつの間にか、こちらの教会に通うようになりました。今から考えると、時間をかけて神様が、この教会へ導いて下さったような気がします。そして間もなく、○○が足の手術を受けることとなり、あまりの突然のことに、私は咄嗟に神様どうか助けてください、と祈りました。そこで初めて、自分が神様を信じているのだと確信しました。入院中は、皆さんにお祈りしていただき、私は一人ではない、こんなにたくさんの方が、一緒に祈って下さっているのだから大丈夫だと、本当に心強く、感謝の気持ちで一杯でした。

                                                                         
おかげさまで、○○もずいぶんとよくなり、教会がとても楽しいと、喜んで通うことが出来るようになりました。バプテスマを受けるのは、まだまだずっと先のことだと思っていましたので、○○先生から○○の決心を聞いたときには、びっくりしましたが、真理奈が自分でそのような気持ちになってくれたことをとても嬉しく思いました。本当に神様に感謝いたします。エミリも毎週楽しみに教会へ来ています。落ち着かず、ご迷惑をおかけしますが、そのうちに、きっと・・・すこしづつ成長してくれると願っています。親子それぞれに、それぞれのスタンスで頑張っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 
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信仰告白  2008年 9月21日

私は、お父さんの仕事の都合で、生まれた時から7才まで、サイパンに住んでいました。サイパンには、日本人学校が無く、週に1度土曜日の補習校しかなかったので、現地校に通っていました。その学校では、授業の中に、バイブルの時間や校内チャペルがあり、そこで初めて私は神さまと出会いました。その後サイパンで、お母さんに連れられて、サイパンの日本語教会へ、通うようになりました。そこにはいろいろな国の人たちが、集まり、また、他の国の教会の礼拝に出席したりして、一人の神さまをこんなにいろいろな、人種や言葉が通じない、国の人達がいっしょに、お祈りをする事をすごいなと思いました。サイパンの教会で、たくさん楽しい思い出が出来ました。そして日本に帰って来てからは、しばらく教会には通っていませんでしたが、また教会に行ってみたいな、と思いました。そんな時に、子ろば会のお知らせを、○○先生から、届けていただき、この菊池シオンキリスト教会に来ました。そして、足の手術をしないといけなくなり、入院した時に、教会のいろんな人が、お見舞いに来てくれたり、お祈りをしてくれたので、「ありがとうございます。」と思いました。私がバプテスマを受けようと思ったのは、早くバプテスマを受け、神さまの子どもになり、いろんな事を教えてもらおうと、思ったからです。私は、私のために十字架にイエス様がかかってくださった事を、感謝しています。

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信仰告白  2008年9月21日

この最も小さなものにしてくれた事は、私にしてくれた事と同じなのです。
これは、マタイ25章のイエス様の言葉です。最近、子ろば会の子どもさんに聞かれました。
「お兄ちゃんは、どうしてそんなに体が大きいのに、どうしてそんなに弱虫なの?」
私は、否定しませんでした。
私はとても弱虫です。子どもの頃から弱虫でした。いじめられたり辛い事があったら、夜、ぬいぐるみを抱いて泣きながら眠っていました。私は小さかったから弱虫だったのではありません。なぜなら私は、大きくなっても弱虫だからです。
そんな弱虫の私も罪人です。私の罪は、神さまを知らなかったことです。ですから私は、他人にとても無関心でした。人は人、自分は自分そう思っていました。それこそが罪でしょう。私は、子どものころとても辛い事がありました。あんな辛い思いを他の子にさせたくありません。もし、辛い思いをしていたら、しっかり話をきいてしっかり受け止めてそして、その子が幸せになるように良き人でありたいと思います。私は、今までずっと淋しかったです。それは、神さまはいつも私を見ていたのに私はずっと神さまから目を背けていたからだと気付きました。イエス様は、おしらく、こんな私のことも昔から知っていて、私のような人のためにも十字架についてくれたのです。だから、教会で私が受け取った優しさ全てが(イエス様の)愛だと思います。
私はイエス様がこうおっしゃっているように思えてならないのです。
「君は、なにかあったら、小さい人やそうでない人も守ってあげてね。そうすることで君は、神さまの愛にこたえられるよ」と。
僕の好きな詩を読みます。
「そんなに不安を持たないで、心配しないで守ってあげたい。あなたを苦しめる全てのものから、なぜなら私があなたを、愛しているから。」
こんな弱虫な私が、イエス様と出会え、イエス様の十字架の愛を知ることによってイエス様が私の弱虫を背負って死んでくださった、と言う事に気付きました。イエス様を私の救い主だと信じます。このイエス様の愛を私の周りの多くの人に、伝えていけるように、これからの人生をイエス様に従って生きて行きます。バプテスマを受けて教会員となり子どもたちがイエス様に出会う事が出来るように手助けをしたいと思っています。こんな私ですがどうか温かく見守ってください。

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信仰告白  2008年1月20日

 わたしはこれまでの50年を、全く神を見ない生き方の姿勢を貫き、自己中心的で、本人の力も賢さもなく変わり易い自分や、他人を今まで信じ、頼って生きてきました。
しかし今、自分だけではどうすることもできない状況に追い込まれている困難の中で、家族の絆を取り戻し、心に平安が与えられ、生きる力を与えてくえる、人生の土台と安心して歩いていける羅針盤を求めています。
50を過ぎて初めて教会の門をくぐり、日曜日の礼拝で賛美歌を歌い、○○先生からの説教を聞いているうちに、何か温かいものがこみ上げてきて、涙が止まりませんでした。大の大人がと、自分でも涙を何とか堪えようと我慢しましたが、止まりませんでした。それは今まで経験したことのない、不思議な感動でした。
私は、三浦綾子さんの本のなかで、
罪を罪と感じ得ないことが、最大の罪なのだまた、私たちは常に尺度を二つ持っている。人のすることは、大変悪い、しかし自分のすることは、そう悪くない。更に自分のすることは全てよい。こうした自分中心にものごとを考えることが、「人はどうでもいい」ことにもつながり勝ちで、この自分を計る物差しと、人の罪を計る都合のいい、自己中心にものを考えることが、罪のもとになっていると。
私は今までの過去を振り返り、自分の今までの人生は、全く自己中心的で、罪深く愚かで弱いものだということを痛感させられました。

初めて教会の門をくぐるきっかけは、教会員、○○さんの人柄と熱心な勧めでした。今でも大きな歓びと、感謝です。
それと、以前から感動していた小説と、ある事故の際に起こった実話との出会いがありました。
ひとつは、三浦綾子さんの小説「塩狩峠」
明治末に北海道の塩狩峠で起きた列車事故で、29才で自らの命を犠牲にして乗客を救った、クリスチャン長野政雄氏という方の実話をもとにして作られた小説です。
もう一つは、昭和29年に起きた洞爺丸の転覆事故での出来事です。転覆した時、救命具が足りずこの時、この洞爺丸に乗っていた二人の外人宣教師は、自分の救命具を、二人の若い青年男女に、それぞれゆずり、異郷の海で最期をとげられましあ。その時、今の日本には、若いあなた達こそ必要なのです。と言ったそうです。車輪の下敷きになって乗客の命を救った長野政雄氏、見も知らない行きずりの他国の若者に、自分の命を救うべき救命具を譲り、その最期を遂げた二人の外人宣教師。愛と信仰に貫かれた美しい実話でした。
でもその時は、私には高ぶることなく、誇ることもなく、自分の利益を求めないような生き方が、本当に人間にはできるのだろうか。ましてや、見ず知れない人のために自分の命を捨てられる人間など、想像もつかないほどすごい、神様みたいな偉い人間だと、感動はするものの、どこかでやはり、自分には関係ない人ごととしか思っていませんでした。
それから後、しばらくしてから、
渡辺和子さんの本の中で、
今から450年程前、キリスト教が初めて日本に渡来し、言葉の通じない国で非常に苦労した宣教師たちは、やがてキリシタン禁制のために厳しい迫害を受けるようになりました。その彼らが処刑によって殉教したり、国外追放される前に、これだけはどうしても日本人に伝えておきたい、と残した言葉があったそうです。それは「神は愛である」というキリスト教の根本的な教えを伝える言葉と言っても良いかと思いますが、「愛」という言葉は使わずに、その代わりに「ごたいせつ」という言葉を使っていたそうです。
その当時は「愛」と言えば、人間の煩悩・情欲・愛着など、成仏を妨げるものと考えられていたようです。
そこで、宣教師たちは「ごたいせつ」という美しい大和言葉を作り出し、人間は年齢・性別・家柄・身分・そうしたものと一切関わりなく「ごたいせつ」なのだ。すでに神様に価値あるものとして愛されているのだということを伝えていた。ということを知りました。私はこの後で、聖書に記されている「放蕩息子」と「一頭の迷える羊」のふたつのたとえ。そして「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である」。
「私が来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである」という聖書の言葉の意味が、少しづつ分かってきました。
神様の愚かなまでと言って良いほどの、罪人に対してのやさしい愛。
罪人が救われることが、神様にとってどれほど大きな喜びになるかということが。
キリストの愛は、見捨ててもかまわないような人を見捨てない「愛」。
価値のないと思われている人を、「あなたは大切な人ですよ」と力づける愛。罪深く赦し難い人でも許す愛。自分の「死」をいとわない愛。そして痛みを感じながらも実践する「愛」であるということが、私なりに分かってきました。
そして私は、ここでやっと塩狩峠で車輪の下敷きになって乗客の命を救った長野政雄氏、見も知らない行きずりの他国の若者に、自分の命を救うべき救命具を譲り、その最期を遂げた二人の外人宣教師の、人間の生死を越えた愛の実践と信仰の偉大さには、利己主義な私たち人間にも、このような生き方を可能にさせる力が主イエス・キリストにはある。
それがキリストの愛だとやっと分かってきました。「神は愛なり」ということを、わたしも、心から本当に信じます。
そして今までの自分が、いかに愛のない者であったかということを。
主よ、今ここで心からの悔い改めをもって、
わたしは、罪深く、愚かで、弱く、今までにどれだけ多くの罪と、過ちを犯してきたかということを、ここに認めます。

 そして主よ、わたしは信じます。
これからあなたの忠実な僕となることで、あなたがイエス・キリストのうちに、罪からの救いの道を示されたことを。
わたしが、真に悔い改めるならば、あなたは必ず喜んで許し、救ってくださることを。
神の愛に感謝し、これから主イエス・キリストに従って生きていくために、教会生活を大切に守ることを約束いたします。
どうか、このようなわたしの内にも、信仰と希望と愛が堅くたてられますようにお願いいたします。  アーメン

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信仰告白    2008年1月20日   

 私は○○年○○月○○日に三重県で生まれました。
その後父の転勤で8才の時兵庫県に転居し、結婚する迄其処で暮らしました。結婚後夫が転勤族になって関西と関東を6回転居をし、最後の地が熊本になりました。
この地に来て、今年で14年目を迎えます。
私が一番最初に教会に行ったのは姉に誘われて、高校2年生の時 ○○の教会に行きました。その教会が少し遠かった事もあって、一年位で次第に足が遠のいてしまいました。その後は教会とはあまり御縁のない生活を続けていました。
私の家族は両親がカトリックの信者ですが、どちらも私が結婚後中年過ぎてから受洗しています。私は5人姉妹の3女で姉2人はプロテスタント、妹の一人はカトリックの洗礼を受けています。姉妹達はいずれも22,3才頃に受洗しています。この様な環境の中に居ても、そして姉の一人は、いつも私が教会に行かない事、聖書を読まない事を嘆き、神様を素直に信じない事を、「貴女は大きな罪を犯している」と言っていました。私は内心この姉との対話に重荷すら感じていました。
その後、定年を迎えた夫との日常生活に少し疲れを感じる様にかってしばらくぶりで教会にでも行ってみようかと思って、近くの同じ派の○○教会に行きましたが、一年近く通ったのですが、この教会に馴染む事が出来なくて、友人の○○さんに相談して、このシオン教会に誘って頂きました。
私は此処3,4年の間に色々な病気になりました。最初はメニエール病になって、めまい、耳鳴り、難聴で日常生活にも支障が出てきました。難聴がひどくて、補聴器がなくては会話も出来なくなりました。病院では、一度壊れた感覚器官は、治す方法がないと言われました。そして、その一年後に、今度はプールで遊泳中に「くも膜下出血」の発作が起きました。この病気で私の様に後遺症もなく元気に生還出来るのは全体の三分の一の確率だと後で知りました。そしてその時に、私は奇跡に出会いました。発作がとても軽かった事、この時神様からの様々なお助けがあった事、そしてこの手術の後、私の耳が以前の様に聞こえる様になったのです。脳外科、耳鼻科のどちらの先生も、この「くも膜下出血」の手術が原因で良くなったとは思えない、と言われました。治す方法がないと言われていた難聴が本当に治ったのです。耳の聞こえにくい不自由さから開放され、神様の奇跡を感じ感謝の気持ちで一杯になりました。
実に長い私の不信仰の時間があったにも拘らず、私の事をお見捨てにならずに、お救い下さった事、これ等の事が、私が教会に通うようになって三年位の間に次々起こった事が、少し不思議に思えます。神様のお招きに、いつまでも応えない私に、神様の御手が差し延べられ、こうしてバプテスマを受ける様にお導きを頂いた様な気がして、本当に感謝の思いで一杯になりました。
私がこうしてバプテスマを受ける様に導いて下さった神様と共にこのシオン教会の牧師御夫妻と教会員の皆様、中でも友人である赤塚姉妹の励ましが大きかった事を感謝しております。

これから私も、教会員の一員として、教会生活を大切に守ることを神様にお約束致します。

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[私は信じている」


それは2007年7月20日の早朝でした。いつものように食卓で聖書を読んでいた私の耳に、「ウァーッ」だったか、「ギャアーッ」だったか、「イターッ」だったか、それらを全部合わせたようなこえだったか、とにかくものすごい声が家の裏の方から聞こえて来ました。私は反射的に立ち上がり、はだしで飛び出しました。すると、隣家との境の、幅1,5メートル程のコンクリートの通路の上に、夫があお向けに倒れていました。それは2007年7月20日の早朝でした。いつものように食卓で聖書を読んでいた私の耳に、「ウァーッ」だったか、「ギャアーッ」だったか、「イターッ」だったか、それらを全部合わせたようなこえだったか、とにかくものすごい声が家の裏の方から聞こえて来ました。私は反射的に立ち上がり、はだしで飛び出しました。すると、隣家との境の、幅1,5メートル程のコンクリートの通路の上に、夫があお向けに倒れていました。
この数日来、ウッドデッキの上に屋根をつけていたのですが、あと4・5本の釘を打って完成、という時でした。かけていたはしごがはずれてその上から落ちたのです。どこを打ってどこをけがしたのかは分かりませんが息もできないような痛みに襲われているようです。私はどうしてよいのか、何も考えるいとまもなく、長々と倒れている夫の上にがばっとおおい被さり、両の手を指先まで精一杯広げて、体をおおいました。「私の中には、イエス様がいてくださるのだから、そのイエス様が体から出てくださって、この痛みをとってくださるように。」「イエス様―。」と心の中で叫びながら夫の体を自分の体で包もうとしていました。何秒か何十秒かたって、夫が苦しそうではありましたが、先程よりずい分落ち着いた声で、「救急車を呼んでくれ」と言いました。病院に行って、大腿部と手首とを骨折していることが分かりました。
それから四ヶ月、又好きな大工仕事もぼちぼち始められる位に回復しました。
私は今とてもうれしく晴れ晴れとした気持ちです。あの時、心の底から、とっさに、疑いもなく、「イエス様―。」と叫んでいる自分に、「ああ私は信じている。」と実感できたからです。トマスのような私にも神様はあわれみをかけて下さっています。そのことを夫とも信じることができるよう祈り続けたいと思います。


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「孫たち」

 0才2才と、おたふく風邪の4才の孫をつれて、娘が里帰りをして来ました。0才は2ヶ月を過ぎ、顔にも、手、足にも肉がつき、ふっくらとした赤ん坊に。そして、泣き声も大きくなっていました。モーセが3ヶ月の頃は、もっと可愛く、泣き声も大きく、隠すには、大変だった事でしょう。主から知恵、工夫、憐れみと、恵みはありましょうが、ナイル川へ流す、主の憐れみの計画が用意されておりハレルヤ。家族特に母親の痛み、主も共に歩み涙されていたと思います。アポロは水をやり、成長させて下さるのは、主です。20数年前に聞いた、みことばです。4才児になると、口答えはするし、食物の好き嫌いは言うし、後片づけは、グズグズ、ダラダラ、時計の針が3に来た、おやつ、と言い出す、2才児は、わかりにくい言葉で、しゃべりながら、お菓子のある場所に立ち、又、冷蔵庫の前に立っています。みことばどおり私達は食事を与えるだけ、成長させて下さる主に感謝します。やはり20数年前に聞きました。どんなに、小さな子どもでも人格があります。親の所有物ではありません。神さまからの預かり者です。「そうなんだよね」と思い出します。子どもとちがい孫となると、責任が軽くなるのか、動作の一つ一つが、おかしく疲れますが笑いながら接してします。どうか神さま彼らが大きくなっても、住みよい地球、日本でありますようにそして、主に守られながら、娘の事を煩わす事なく、成長させて下さい。そしてそんな彼らと、かかわる事の出来る自分を感謝します。



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「母の救い」

 実家の母は、イエス様を救い主と信じる決心をした時、その喜びで「これからは仏壇にも神棚にも水も花もあげない」と家族に宣言をしました。しかし、一緒に生活していた弟は、突然の母の変わり様に驚き、「キリスト教は先祖を大切にしない」といって、母が教会に行く事を猛烈に反対しました。
ところが、そのような中でも神様は確かに働いてくださり、母のバプテスマは備えられていたのです。
母のバプテスマは、私たちの思いを越えたところで実現しました。老人会の忘年会で温泉に行っていた時、牧師先生がその席に出向いて下さり、母に「イエス様を信じてバプテスマを受けますか?」と尋ねると、母は即座に「はい」と答えました。早速、温泉でバプテスマ式が行われ、救いに与ることが出来たのです。
母は、信仰決心からバプテスマを受けるまで、家が教会から遠いことや弟の反対、そして高齢でもあり、なかなか礼拝に出席することができませんでした。しかし、毎週教会から送られてくるメッセージテープや牧師先生や兄弟姉妹の祈りに支えられ、信仰の火は消えることなく、却って、逆風の中でこそ信仰は養われ、母自身の病や、父の幾つかの病気さえも、「イエス様が治してくださる」と確信する程の信仰へと導かれていったのです。
今年、バプテスマを受けてから十年が経ちました。今では、家族の者が都合をつけて教会への送迎に協力してくれています。あれほど教会に行くことに反対していた弟さえも、「今日は送ろうか」と、優しい声をかけてくれる弟へと変えられてきました。最近は、礼拝に出席できる回数もずいぶんと多くなり感謝しています。
まだ喘息が少し残ってはいますが、骨粗しょう症でコルセットをはめている状態でも「家で静かにしているより教会へ行くと清々する」と、喜んで礼拝に出席しています。メッセージは勿論のこと、みんなで心を一つにして賛美するのがとても嬉しいと言っています。
今、私たちの祈りは、やがて八十四歳になる父の救いです。以前、阿蘇で開かれた聖会で、一度は「イエス様を信じます」と、決心を表したことのある父ですが、村の方々との付き合いや立場などで、何となくもう一歩が踏み出せずに躊躇しています。そんな父に向かって母は、「信じると天国、信じらんと地獄に行くよ」と、ストレートに言っているこの頃です。
  「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とのマルコ11章24節のみ言葉を信じて、これからも祈り続けたいと思っております。